2016年04月18日

西成特区構想考(1)の7

歴代市長略歴
中井 光次 1945(昭和20)年9月8日〜1946年12月13日
      1951(昭和26)年4月25日〜1963(昭和38)年3月23日
内務省に勤務し、各府県の内務部長・警察部長を歴任。島根県知事(官選第32代)、その後大阪市助役(1936年〜1945年9月)を務める。日本の首長としてはごく少数の、官選・公選の両方で選ばれた首長である。
助役と市長の在職期間は、通算22年

近藤 博夫 1947(昭和22)年4月7日〜1951(昭和26)年4月4日
初代公選大阪市長。大阪市役所に入り港湾部長・理事を歴任し、大林組に入り常務。また土木学会関西支部長などを務めた。

中馬 馨  1963(昭和38)年4月19日〜1971(昭和46)年11月8日
大阪市役所に就職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年7月3日〜1956年7月2日助役。
助役と市長の在職期間は、通算16年

大島 靖  1971(昭和46)年12月20日〜1987(昭和62)年12月18日
1939年に内務省へ入省。1949年から大阪府労働部長を務め、1954年に在ジュネーヴ領事。1959年に労働省審議官に就任し、1960年には労働省労働基準局長。1963年5月31日〜1971年11月25日大阪市助役。
助役と市長の在職期間は、通算24年

西尾 正也  1987(昭和62)年12月19日〜1995(平成7)年12月18日
民生局長・市長室長・交通局長・大阪市を退職、大阪港振興株式会社代表取締役社長に就任。1983(昭和58)年5月31日〜1987(昭和62)年7月18日大阪市助役。
助役と市長の在職期間は、通算12年

磯村 隆文 1995(平成7)年12月19日〜2003(平成15)年12月18日
1975年大阪市立大学教授に就任。1990年 1990年4月1日〜1995年9月18日大阪市助役。
助役と市長の在職期間は、通算13年

關  淳一 2003(平成15)年12月19日〜2007(平成19)年12月18日
大阪市立大学医学部卒業。同大助手、講師を歴任。1987年 大阪市立桃山市民病院副院長兼第一内科長に就任。1992年 大阪市環境保健局長に就任。1995年12月28日〜2003年9月19日大阪市助役。
助役と市長の在職期間は、通算12年


大阪市長職は、選挙制度ではなく、徒弟制度で成り立っていたかのような印象を受けるのは、私だけだろうか。(2016年4月18日・記)
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西成特区構想考(1)の6

以下の選挙事情
 橋下氏が無所属・自民府連推薦で当選し、大阪府知事に就任したのは、2008(平成20)年2月6日
2007年(平成19年)4月8日の大阪府会議員選挙結果は、
自民45議席、公明23議席、民主19議席、共産10議席、社民1議席、無所属14議席で、自民単独過半数ではないが、自公では過半数を維持している。

 その後、2009年(平成21年)8月30日、 第45回衆議院議員総選挙で自民党が解散前を大幅に下回る119議席の歴史的大敗、衆議院第1党を民主党へ明け渡し、地域政党「大阪維新の会」の創設(2010(平成22)年4月19日)と続く。

2011年4月の大阪市会議員選挙結果は、
  維新33議席、公明19議席、自民17議席、民主8議席、共産8議席、無所属1議席
  大阪府会議員選挙結果は、
維新57議席、公明21議席、自民13議席、民主10議席、共産4議席、みんな1議席、無所属3議席
府議会では維新が過半数を制し、市会は過半数に届かなかったが、第1党となった。

その年11月27日の知事選・市長選で、松井知事、橋下市長誕生。この時市長選の対立候補平松氏は、前回同様無所属での立候補あったが、前回と違い、民主党大阪府連支援のほかに自民党大阪府連の支持と共産党中央委員会の支援を受けている。

2012(平成24)年12月16日の衆議院議員選挙では、自民党が単独で絶対安定多数(269議席)を確保して第一党に返り咲いた。民主党は57議席、日本維新の会が54議席。

2015(平成27)年4月13日の大阪市会議員選挙結果は、
  大維新36議席、公明19議席、自民19議席、共産9議席、無所属3議席
  大阪府会議員選挙結果は、
維新42議席、自民21議席、公明15議席、共産3議席、民主1議席、無所属6議席
維新は、府市の両議会で過半数をとれなかったが、第1党を維持した。

2015年5月17日特別区設置住民投票、僅差で否決。
同年12月9日知事・市長同日選挙。橋下氏引退。
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西成特区構想考(1)の5

「作法」を改めよ!いや、それが命!のすれ違い
平成24年1月19日の「平成22年度決算特別委員会(一般)」で、西成区選出の尾上市会議員は、『やっぱり議会は後についていくという感じで受けとめた』と延べ、『先に市長の思いが新聞報道で出るというこの間の手法というのかあり方というのはほとんどそういう形で、−それを議論するということに今の議会の立場でいうとなってますわね。−市長はよくあるんですけど、−間違いあればすぐそれは認めて撤回すると。−ほんならもう次にいくという感じでこの間のスタイルは来てる。−もう少しそこは検討して発信するように』注意を喚起している。

それに対して、橋下市長は『発信するということは、−自分に責任を持って、あとは自分の言葉でしゃべるというところが重要なわけでして、一言一句、ちょっと間違ったからそこは間違えるなというふうに言われたら、これはもうトップとしての役割が何もなくなってしまうといいますか、−あとは僕自身が責任をとります。間違ってこれは修正がきかないということになれば辞職をするし、そうでない修正は修正していくという方針でやっていきます。』と答えており、「作法」の違いが浮き彫りになっている。

戦後初の行政経験のない民間出身の大阪市長といわれる平松氏が無所属・民主党推薦で当選し、市長就任したのは、2007(平成19)年12月19日である。
 2007年(平成19年)7月29日の第21回参議院議員通常選挙で自民党が野党第1党である民主党に大敗。初めて参議院第1党から転落した余波ともいえる。
 しかし、平松氏市長就任前の4月8日の大阪市会議員選挙結果は、
  自民30議席、公明20議席、民主17議席、共産16議席、無所属6議席。平松氏長が推薦を受けた民主党は、第3党、少数与党であることに変わらず、「作法」を変えるどころではない環境であったといえよう

橋下氏の場合は、個性の違いもあるが、以下の選挙事情を見ても、常に第1党に支えられており、「環境」の違いは歴然であったといえ、「作法」を変えても通用させ得るという判断もあったように思える。

 もっと重要なことは、首長と行政との分離、というか、首長と行政の一体感が断ち切られたということかもしれない。新しい「作法」は、そのために選ばれた手法であったといえるのかもしれない。(最下部の歴代市長経歴参照)。

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西成特区構想考(1)の4

それまでの「行政」で重視されたのは、「根回し・こなし」である。

「地域」に関わることがマスメディアで報道されると、「根回し・こなし」が不十分であったら、担当職員に苦情が殺到することになる。
「なんで前もって知らせてくれへんやったんや、他から聞かれたときにどう答えたらええか、わからへんやないか」。
大阪市は結構、地域の町会連合にものを頼むことが多い。連合町会長は、町会の会合で行政情報を伝達することが多く、行政情報に詳しいことが一種のステイタスシンボルとなっている。マスメディアの報道で知るということは、一般市民と横並び扱いということになり、「問われたときに説明ができなくて困る」という事情もさりながら、「メンツをつぶされた」感を抱く。これは、市会議員も同様であろうと思われる。

しかし、橋下市長の場合は、従前のルール、「根回し・こなし」をあまり尊重しないスタイルを取る。
幹部メールについては情報公開請求の対象で、オープン情報である。
『幹部のほうにこういう方向でいくから行政的にしっかり課題列挙、検討してほしいという、今そういう段階です。これから部局のほうがいろんなオプション、行政的ないろんな方策を出してきますので、そこでまた僕が行政のほうと議論をしていろんな方針を確定した後に、今度は議会の皆さんと議論をするという形になる』のだから、市会議員にすれば、経過を一般市民と同レベルでマスメディア通して知らされ、市長と行政とがとりまとめた結論の市会提案を待って討論する、端的に言えば、賛否の表明だけが求められることになっていると受け止めるかも知れない。

毎日の記者会見にしても、『以前は全部、−質問することを事前に役所に提出して何か確認してたなんてことも聞いてますけども、−今はもう完全にフリーディスカッション状態です。あとはもう政治家の僕の責任として、これは後で訂正がきかないなというところは一歩踏みとどまってやってますけれども、そうじゃないことに関しては、それは自分の思いとかそういうものを言いながら、記者ともコミュニケーションをとりながら自分の考えというものを探っていくというやり方』で、幹部メールの公開と同様にオープンスタイルを貫いていることからすれば、その思いは強まるばかりと思える。
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西成特区構想考(1)の3

発信者と受信者で異なる「メール」の意味

流れとしては、産経の朝刊報道があり、それを朝の会見で各社が確認し、各社夕刊で後追いすることになったということのようだ。

ではなぜ、産経の先行報道が可能だったか。橋下市長が翌日の委員会答弁の中で、『幹部メールについては情報公開請求の対象になりますので、それをメディアがとらえたのかどうなのかでメディアが報じたという流れ』と述べているのを文字通りに受け取れば、1月15日のメールに基づいて産経記者が取材を重ねてのことと想像することはできる。

そのメールが「指示」であるかどうかは、発信者と受信者で温度差があったようで、大阪市職員・担当者は「指示」と受け取ったようだが、橋下市長は、『議論も何も、今、幹部のほうにこういう方向でいくから行政的にしっかり課題列挙、検討してほしいという、今そういう段階です。』と委員会で答弁し、「確定方針」ではなく、検討の要請だと解説している。
また、メールによる指示は、『まず部局に方針を伝える。−そして検討してほしいと、こういう考え方について行政的にどうなんだということを課題を列挙してほしいというところを指示を出した』、『巨大な組織を動かすマネジメント』の手法であるとも述べている。

橋下市長の「ある事柄を行うについて、課題を列挙して欲しいという指示」と、その指示を「ある事柄を実施する方向で検討せよという指示」として受け取った職員たちのとの食い違いは極めて重大で、職員たちの「市長独裁」「独り決め」という愚痴の元となって、それが世間に伝わり、または、伝わらなくても、表に出る情報から、世間も職員のように受け取って、「橋下市長独裁者」論に拍車をかける事になったようにも思える。

これは、「作法」の違いから生じた事のように思える。
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西成特区構想考(1)の2

まずは、発端事情
先に紹介した大阪市のホームページによると、特区構想の発端は、「市長の指示―特区的な運用を行い、子育て世帯を西成に誘致するように指示があった」ということのようだ。
その指示は、平成24(2012)年1月15日のメールであったという。
橋下氏が市長に就任したのは、前年の12月19日だから、「市長指示」は就任1ヶ月後ということになる。

橋下前市長のメールはすさまじいものだったようで、『幹部らには休日・深夜を問わず、指示メールを飛ばし、回答を迫る。金曜日夜から土、日曜にかけて、10数通のメールが届いたという幹部は「矢継ぎ早すぎて、じっくり考えられない。まずは市長のスピード感に慣れないと」と漏らす。(読売新聞2012年1月20日朝刊39ページ。)』
因みに、2012年1月20日は金曜日。10数通のメールが届いたという金曜日夜から土、日曜が、13日〜15日のことだとすれば、特区構想の発端とされるメールも、その中の一つかも知れない。

発端について、別の見解もあるようだ。
アサ芸プラス(徳間書店が運営するニュースサイト)の記事『橋下徹市長「あいりん特区」構想の勝算(1)「大阪府構想」の突破口に』(http://www.asagei.com/excerpt/3657 =2012年2月7日 10:57 AM)では、記者会見の発言が取り上げられている.
1月18日、突如、記者団の前で、橋下徹市長が打ち出した「あいりん特区」構想。日本で最大の日雇い労働者の街に子育て世代を呼び込むため、固定資産税や市民税を一定期間免除する構想を明らかにしたのだ。』と書き、『「西成区をえこひいきする」/1月18日、橋下徹市長(42)の記者会見の席での発言に大阪市職員は誰もが耳を疑った。』

先に紹介した「西成区特区構想」の経緯説明では、1月15日のメールとあり、1月18日の記者会見での発言より4日前に、大阪市職員の何人かは知っていたと思われる。

この1月18日の記者会見の記録を探してみた。

大阪市のホームページによると「市長記者会見」は、2011(平成23)年12月19日の就任記者会見が最初で、以後、翌年の1月4日、1月12日、2月9日と続く。1月18日付けの記者会見は見当たらない。
大阪市会の「平成22年度決算特別委員会(一般)平成23年12月・平成24年1月-01月19日−06号」議事録に、橋下市長の発言として『毎日、記者とは朝30分近く取材に応じて、帰りも同じぐらいの時間をやってる』と記されてある。

産経新聞(大阪)の2012(平成24)年1月19日朝刊「市長日記(18日)」に、『午前9時 登庁。西成特区構想について「企業誘致の手法で子育て世代を西成の特定地域に呼び込みたい」と話す。』と記載があり、アサ芸プラスの記事で言う記者会見はこの事を指しているようだ。

但し、産経新聞はこの記者会見の日(1月18日)の朝刊一面に、『橋下市長 西成優遇・特区へ 減税で子育て世帯誘致 治安改善目指し職員増』の見出しで、特区構想を記事にしており、『記者会見の席での発言に大阪市職員は誰もが耳を疑った。』かどうかは、定かではない。大阪市役所の開庁時間は、9時00分から17時30分までであるから、出勤した市職員が午前9時の記者会見までに、産経新聞の回覧を行った可能性は低いとすれば、あるいは、誰もが耳を疑う状態であったかもしれない。
なお、記事中には『西成が変われば大阪と日本が変わる』との橋下市長の言葉が入れられている。
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西成特区構想考(1)その1 

「作法の転換」−「根回し・こなし」から「究極の情報公開」へ
徒弟制度からの脱却過程の混乱???


「西成特区構想」の話題性は、現地ではいざ知らず、世間では旧聞に属するものとなりかけているようだ。

日経新聞の『無料検索サイト「新聞トレンド」』で、「あいりん特区 」「西成特区」「西成特区構想」を検索したところ、以下の結果となった。(この検索では、朝日新聞は対象外のようである。
2011年04月16日〜2016年04月15日 
      あいりん特区   西成特区    西成特区構想
合計記事数     1件     171件       153件
No.1    毎日新聞(1)  産経新聞(52)  産経新聞(47)
No.2  日本経済新聞(0)  読売新聞(36)  読売新聞(32)
No.3  日経産業新聞(0)  毎日新聞(35)  毎日新聞(31)

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 グラフを見ると、2012年1月1日まではキーワードを使った記事はなく、その後、急激に増えている。西成図書館で「多機能OMLIS」を使い、新聞記事検索をしたところ1月18日以前には、特区の内容を含むあいりん・西成区関連の記事はほぼなかった。勿論、結核がらみ、露店・ごみ問題の単独記事はある。

 大阪市のホームページで、西成特区構想の概要と、発端から今日までの各種会合の日程や資料が公開されている。
http://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000168733.html
それを参照して傾向を探ると、マスメディアの取り扱いが最も多かったのは、特区構想う打ち出しの時期(2012・平成24年1月〜7月にかけて)、次いで大きい山は、2014(平成26)年のテーマ別シンポジュームが開催された時期。3番目に大きな山は、その前年の「第4回西成特区構想プロジェクトチーム会議−平成25年2月27日」が開催された前後と見なせる。
 最近では、単発トピック的な取り扱いはあるが、複数日にわたる報道という注目度ではなくなっていることを示しているように思われる。

 そんな下火傾向の話題を、少し掘り下げてみる。



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